2026年3月8日

最近、ふと建築の設計は何をパラメータにしているのかということを少し考えた。

建築はおおむね機能(広義)をパラメータに作られる。もちろん、他にも敷地条件や環境条件、構造・構法の条件があるだろうが、それらも含めて「機能」と捉えてみる。でもやはり「機能」と言うとややこしいので、これからは「コンテクスト」と呼んでみる。

そう捉えてみると、もはや建築はコンテクストをパラメータに、それを固定化したものであるというラジカルな考え方ができると思う。「機能主義」以前の様式主義建築だって、その様式を選ぶということ自体がコンテクストともいえるし、それ以前の伝統による建築も、伝統=技術のコンテクストがあるから生み出されたものと言える。

クリストファー・アレグザンダーも、「形の合成に関するノート」で、同じようなことを考えていた。彼は建築とは「形とコンテクストの接合」というようなことを主張している。

もう少し考える。「コンテクスト」の解像度を上げていきたい。今のところ、「コンテクスト」には「フィクション」と「実コンテクスト」が含まれると思う(この命名は即興なのでもっといい名づけ方がありそう)。

「フィクション」とは、例えば建築家の詩的なコンセプトだったり、「機能」だったりする。ここで、機能はフィクションであると言った。不思議に思われるかもしれないが、「機能」そしてそれをうまく配置(ゾーニング)するための「計画学」は、近代において最もうまく作用し、信じられてきたフィクションだと思っている。以下の記事は、そのことについて「フィクションとしての建築」という切り口から考察している。

第1章 誰も乗り越えてはならない――青森県立美術館 立石遼太郎|millegraph [株式会社ミルグラフ]

「実コンテクスト」は、例えば無意識的な空間の経験や記憶のようなものや、文化として無意識に受け取ってしまっているもの。つまり、実際に起こっているけれど、それを意識化することが難しい複雑で多様な現象である。多木浩二の『生きられた家』や、乾久美子の『小さな風景からの学び』は、こういったものを扱っていると思う。それに加え、文化として無意識に受け取ってしまうものはすでに無数にあって、そういう意味では「実コンテクスト」が表面化した状況はポストモダン的であるということもできると思う。

こんなふうにまとめてみると、現代の建築批評は、作家や計画や文章などの「フィクション」に寄っている気がして、「実コンテクスト」的な批評は建築批評とみなされないきらいがある。路上観察学会もアートの枠組みで言及されることが多い。しかし、建築をコンセプトや作家とは切り離して考えるというのは、都市史の分野では一般的な態度だ。自分が興味があるのは、現在の建築・都市空間に対する都市史的な見方なのだろうか。