ゲス◎の2026年公演の稽古に観光客としてかかわっている。そのテーマは賭けるということについてであり、ドストエフスキーの『賭博者』を主なテキストとしている。ということもあり、最近は賭けることについて考えることが多い。
東浩紀による東浩紀の恒例無料突発雑談配信 9月8日編をなんとなく流していたら、稽古でもよく話していた、統計と経験の違いについて話していたので文字起こしを以下に引用。
僕は今や、この人生という麻雀ゲームのほうに関心があるわけ。さっき言ったようなことは、LLMにやらせりゃいいんだよ。もしくは、俺の中のLLMにね。同じことだから。
「AIが麻雀をやったほうが強い」って? AIには世界系麻雀はできない。AIが麻雀をやって強いのは、統計なんだって。
だから、統計と、一回しか生きられない人生とを混同しちゃだめだよ。統計が正しいかどうかとは関係がないから。だって俺たちは、その統計の中の一個の駒だから。
統計的に正しく、常に正しい選択をしていましたと言っても、結果として自分の人生が負けたときに、誰も責任を取ってくれないんだから。
僕たちがもし一万回、人生を持っていたら、統計に従うのがいいよ。まあ、百回でも大丈夫かもしれない。でも、一回しかないんだよ。一回しかない俺たちが統計に従うことに、合理性はほとんどないね。
分析するんだったら合理的だよ、統計は。政策で資源を配分するときも大事だよ。そういうところでは、科学や統計学はめちゃめちゃ使うべき。
しかし、自分の人生を決定するときに統計学に従っていたら、あとで「俺は合理的にやっていたのに、なんで失敗したんだ」と恨みに思うだけです。なぜかというと、一回の人生はイレギュラーだらけだからだよ。
僕たちは、みんなイレギュラーなんだから。平均値を生きていくやつなんかいないわけでしょ。平均値はいろいろなところにあるけど、そのすべての平均値を体現しているような人なんていないわけだよ。
例えば、年収は平均かもしれないけれど、人生のどこかで急に大きな病気をするとか、障害を持つとかってあるよね。そうしたら、もう平均からずれるよね。
年収が平均で、病気もしないかもしれない。でも、例えば家族の形態が違う、恋愛をしない、そもそも性的指向が違う。これもまた、ずれるよね。じゃあ、すべてが平均の人なんているかといえば、いないよ。それはフィクションだよね。これ、昔、藤子不二雄の漫画にあるけどね、この話。
俺たちは統計の中に生きているけど、統計に従っちゃいけない。正確に言うと、統計がおすすめするライフプランなんかに従って、それで失敗したり、自分の人生がずれたりしたときに、誰も責任を取ってくれないんだから、最初からそんなものは信じないほうがいいよ、ということです。
だって、いろいろ積み立てたって、何が起こるかわからないじゃん。「何が起こるかわからない」というのは、別に日経平均の暴落とか、そういうことじゃなくて、自分の人生で何が起きるかわからないということよね。
そのときに積み立てた、例えば財産だったり、信用だったり、学歴だったり、職歴だったりというものが、急にだめになることってあるわけで。でも、そのときに統計の人は、別に何も責任を取ってくれないわけじゃん。
それは、さっき言った麻雀でも同じです。ここでこれを切るのが統計的に正しいと言って、正しいものに全部従った結果、すごい上がりを逃してしまっても、統計学に基づくAIのアドバイスは何も責任を取ってくれないわけで。俺たちは、一回しか麻雀できないわけだから。
そのときに、僕はやっぱり「行く」しかないと思っているわけよね。もちろん、統計的に見たら、ゲンロンはここで普通に畳んだほうがいいのかもしれないけど、行くしかないでしょ。
だって、俺も思うよ。普通に考えて、俺が死んだらゲンロンは終わりだよ。たぶん、95パーセント終わりだよ。でも、行くしかないでしょ。そういうことじゃないの? それをバカと言ったら、バカでしょ。そんなことを言ったら、俺は前からバカだよ。