まず、たまに見るナミブ砂漠のライブ映像が出てきて、「ナミビアの砂漠」ってこれのことかいと笑ってしまった。 映画の大雑把なストーリーとしては、社会に出られているのになぜか人間関係になじめない主人公が、自分は何者なのかという精神分析的なレッテル(「症状名はあなたに必要ですか?」とカウンセリングで聞かれていた)を欲し、やがてそれを乗り越える(隣人と歌いながら炎を越えるという儀礼)というものだと解釈した。主人公のADHD的な注意散漫さや、漠然としたイライラを組み上げて人を傷つける(中絶の話など、もはや関係ない2つの経験から故意にストーリーを組み上げ、罪を糾弾する材料にしていく)行動は、自分にとってはリアリティを持って共感できるものでもないし、むしろ見ているこちらがイライラする類いのものだった。しかし、主人公の性格や言動、その周りの世間の優しさや正しさは、あらゆる刺激的なコンテンツへの過剰接続と応答を繰り返し、一方でフィジカルにはハラスメントが少ない現代社会というものをリアルに描いていると感じた。 それ以上にこの映画の良さだと思ったのは、映像の構図やカメラワークやトランジション、そして音響が、独特で不思議ながらも妙な効果を生み出していたことだった。同監督の『あみこ』のようなサイケデリックさは控えめになりつつも、それぞれの表現が統合され批評を生むきっかけになっている。映画はこういう挑戦あってこそだよなと思った。挙げるとキリがないので省略。 あと、左右反転についても触れておかないといけない。最後の場面では、それまでの部屋のレイアウトが左右反転していることが、すごく意味ありげだ。思い返せば、中盤に主人公の服のカリグラフィも反転っぽいデザインをしていた。終盤で自分自身を客観的に見る視点を得たということだろうが、この左右反転が起こるのは、鏡を通して見たり、スマホなどで自撮りをしたときだ。完全な客観視ではなく自撮り的な客観視であるということに、どのような意味があるのだろうかと考えている。