生活に必要最小限のものすら入手が難しかった戦後復興期や、より「豊かな」暮らしを実現していった経済成長期においては、それらを得るための建築生産・都市の発展が必要だった。社会が抱える課題が比較的明確で、何をつくるかがはっきりしていて、あとは「どのように」建築や都市をつくるかが問題だった。技術や効率を追求し、与えられた前提のもとで最適な解決策を導き出すことが、設計やものづくりにおける中心的な目的であった。そのため、「機能」に準じることを是とする計画学によって建築は設計され、解釈された。
もはや生活に必要なものはほとんど手に入り、十分に「豊かな」社会となった20世紀後期以降は、建築・都市は記号化され、生活の地盤からは宙に浮いた記号生産・消費の対象になることもあった。
経済バブルの崩壊、気候変動、数々の災害を経て、格差の拡大や人口減少の局面に突入している現代社会では、複雑で多様な問題が前景化し、機能主義による「最適な」建築は新たな問題を生み、かといって過度な生産・消費の対象とすることも避けなければならない。社会との新たな関係性を築くためには、そもそも「何を、どこに、なぜ」つくるのか・求められているのかという根本的な問いから考え直す必要が生じている。
何が求められているのかを把握するためには、「機能」や「用途」などの意識化された意味だけではなく、身体的な経験によって醸成される無意識的な意味づけや、生きられた文脈に着目することが重要である。
無意識的な意味づけに着目するとき、ひとまず、建築・都市空間を記録することを考えつく。ふつうは写真や文章を使って、できる限り多くのことを正確に記そうとする。映像や3Dスキャン、センサーを用いてもいい。そして「この場所はこのような性質を持つ」というようにデータを組み合わせ整理していくことにより、検索・共有可能なものにすることができる。
ところが、どれだけ記録しても取り逃してしまうような場所の質があるし、どれだけデータを整理しようとしても、その組み合わせ方や分節の仕方が無数にあるので不可能であることに気づく。またそのようにして記録されたものが、人々が実際に感じているものと異なる可能性もある。
このように、建築・都市空間の雑多なデータをそのまま記録・整理するだけでは、人々が持つその場所の無意識的な意味を把握することにはあまりつながらない。
かといって、データベース化しやすい建築の設計者や都市のプランナーによるステートメントは、あまりに意識的に整理された記録である。市井の書籍、記事、匿名の投稿、ビッグデータなどによって、建築・都市空間のイメージを社会学的に分析することも考えられるが、それらの記録は場所の性質の一側面に集中する傾向がある。
この問題に対して、例えばクリストファー・アレグザンダーは、建築・都市空間におけるコンテクストと形の関係を研究し、独自の設計論を展開した。コンテクストの単純化である「機能」ではなく、より精緻に数学的な手法で分析し、ツリー構造のダイアグラムで示した。
心理学の分野では、人間の思考は性質の異なる二つの情報処理システムから構成されていると仮定され、その二つは便宜的に「システム1」と「システム2」と呼ばれる。システム1は「自動的で直感的な情報処理システム」とされ、速く、努力を要さず、感情や連想、経験に基づいて即時に判断する働きを担うとされる。これに対してシステム2は「制御的で論理的な情報処理システム」とされ、ゆっくりと時間をかけて、意識的な注意や思考資源を動員しながら、推論・計算・比較検討といった高次の認知活動を行うとされる。
アレグザンダーのダイアグラムや、心理学におけるシステム1による認知は、どちらも意識化されたものではなく、無意識的な場所の意味づけに近いものを示す例である。これらのようなものを、いかにして建築的行為につなげていくかが問題になる。
建築的行為とは、建築物を新たに作ったり構想したりすることだけではなく、すでにその場所にあるものを読み替え、人や物事の新たな関係性を生み出すことである。
『小さな風景からの学び』は、アノニマスに生きられた場所に内在する質を、その風景の写真の類型的分類によって読み取る試みである。具体的には、なんとなく良い風景の写真を半分自動的に撮り、その風景を分類していくことで「なんとなく」の感覚を客観視している。その際、「なんとなく」の基準として「生態系サービス」という言葉を採用し、生きられている状態を、生態系サービスが最大化されているありようであると定義した。分類は、生態系サービスがいかに最大化されているかの分類であり、ユニット名はそれを端的に表すものになっている。このように、その場所の生きられた質を生み出す周りの風景を分類することによって、間接的に記録・共有する方法である。
また、アトリエ・ワンは美術展やまちづくりのプロジェクトを通じて、都市空間にすでに存在していた路地や空き地、ベンチなどの「資源」と人々のふるまいとのインタラクションを丁寧に読み替え、マイクロ・パブリックスペースとして差し出した。ここでは、身の回りの「資源」に対する人々のインタラクションとしてのふるまいが、生産・共有されるような回路を生み出している。機能や用途以前の、はっきりとした目的を持たないふるまいに注目することで、無意識的な場所の意味づけをする身体的な経験にアクセスすることができている。
正確に把握することが難しい無意識的な場所の意味を、要素を絞ったり抽象化・記号化することで分析するという方法では、本来複雑で動的であるはずの対象を捉えきれない。これに対して、「小さな風景」や「マイクロ・パブリックスペース」は、要素を直接読み取るのではなく周りの現象を含めて大きな対象とし、読み替えていくことを動的なしくみとして開いている。そのため、有効な実践となっている。
しかしながら、そのしくみをより幅広い人々が共有し、誰もが実践できるものにはなりきれていない。「小さな風景」を共有するのは、そのワークショップに参加する人だけであるし、「マイクロ・パブリックスペース」を実践できるのは、そこで生産・共有され得るふるまいを見つけ、実行できる人だけである。ひとりよがりにならない、より普遍的な建築的行為のあり方を追求するためには、誰でも参加・共有できるしくみを考える必要がある。
この点で、仮設的な介入によって臨機応変に更新を行い、空間体験を向上させる戦術的アプローチである「タクティカル・アーバニズム」は参考にし得る。なぜなら、都市の未利用地を積極的に使い、仮設的な介入を繰り返しながら評価していくという実践は、比較的多くの人に開かれているからである。しかし、その評価軸は「どれだけ多くの人が来るか」といった機能主義的な観点になりやすく、「何を、どこに、なぜ」つくるのか・求められているのかという根本的な問いから外れてしまうおそれがある。
まとめると、無意識的な場所の意味を建築的行為につなげるためには、その読み替えを動的に行い、多様な人々が参加・共有できるしくみを構築することが重要である。