ストーリーの出来で重要なのは情報の整合性であって、完全性ではない。むしろ手元に少ししか情報がないときのほうが、うまいことすべての情報を筋書き通りにはめ込むことができる。
ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』(2014)より
その通りだと思う。同時に「論理」と一般的に呼ばれるものの曖昧さを露呈する文章だと思った。
「~だから、~は~だ。」は、学術的な考証を行っている場以外ではほとんど再現性のない妄言なんじゃないか。と、とうに自分含め多くの人が知っている事実をなんとなく書いてみる。
似非「論理」をバカにしたいわけではない。むしろ自分はそれにおもしろみを感じているし、人間の豊かさだと思っている。なぜなら、「~だから」に含まれるのはフィクションの設定であり、想像力の萌芽だからだ。
「メロスは走っている。なぜなら激怒したから」という文はもはや論理の体をなしていない。しかし激怒しているなら仕方ないか、と思わせてくる妙な説得感がある。説得感がないとしても、それがフィクションであるというたてつけであれば、その大枠の中でコントのような面白がり方をすることができる。
話の論理性を取り上げてもあまり面白くはない。あらゆるバリエーションの限られた情報から組み上げられる似非論理が、別のなにかの質へと変化していく。その変化の様子に自分は興味がある。