私たちが実際に経験している世界は、どうしようもなくつかみどころがない。書き言葉、絵画、写真、映像といった記録は、そうした世界を何かしらの形で定着する強力な手段だが、可逆的に世界を再現するものではなく、記録すればするほど世界のつかみどころのなさに呆然とする。

むしろ、その記録は元の世界とは無関係に、全く別の新しい経験、記録にとっては不本意の経験(=解釈)をもたらすものと考えられないだろうか。というか、記録されるほとんどのものがビット化され、記録の種類をも横断しながらインターネットに流通し、無限の組み合わせが生成され続ける現代においてその事実は疑いようがない。

たとえばカメラで何かを撮るとき、対象を記録したくて撮るのではなく、多くの場合、対象に何かしらの感触を受けたその経験自体を定着したくてパシャリとしている。そして多くの場合、当事者でもない限り、写真や映像の記録からそのような何かしらの感触を再現することは不可能である。つまり、撮影者が本当に撮りたいものは写真や映像には定着しないし、写真や映像自体は鑑賞者によってさまざまに解釈されうるものである。

ならば、「良い写真・映像を撮ろう」とか「撮影者の意図を汲み取ろう」などといったパラダイムに縛られる必要はなく、もっと自由に撮っていいし、どのように解釈をしてもいいし、不本意な解釈にも寛容であっていい。そのようなカジュアル写真、ホームビデオ的な感覚で「映像」を楽しむ視点があると思う。

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