現在の関心

建築や都市空間において身体的な経験によって醸成される、その場所の無意識的な場所の意味に関心があります。例えば、

子供のときに遊びで使っていた、家と家の隙間

秋になると、なぜか特徴的な風の音が聞こえる場所

単調な景色や重たい車と作業の音が不快な工場地帯の道

いつも人の滞留が生まれている、アイストップのあるY字路

解体されてから気づく、その場所らしさを作り出していた塀の汚れ

私は、このように弱弱しいとも言える断片的な印象や記憶が、実は日常の建築や都市の把握につながっていると考えます。多木浩二が『生きられた家』で示したように、建築は単なる物理的な器ではなく、そこでの反復的な身体経験や記憶の堆積によって、はじめて「生きられた」場所として立ち現れます。そうした観点から見れば、私が関心を寄せる名づけがたい断片は、機能や形態の説明だけでは捉えきれないような、生きられた文脈を示していると思います。

また、都市の場所の無意識的な意味は、それぞれの個人が別々に抱いているものではなく、その場所を共有する人々の公共的な記憶になり、使われ方が伝播していきます。塚本吉晴のビヘイビオロジーが建築や都市を人びとのふるまいの蓄積から読み解こうとしているように、場所の意味とは反復され共有される使われ方そのものとして、都市のなかに公共的に立ち現れます。

場所の無意識的な意味を読み取ったり共有したりすること。そのことによって、建築や都市がどのように私たちの活動を形づくり、また私たちにとってどのような存在であるかを問い直すことに関心があります。

その手法として、私は写真や音声や映像や演劇といったメディアに注目しています。

上記のような対象は、無意識であるために言語や類像で記録することは難しいですが、意識しきれないものも含めて定着できるメディア技術を用いれば捉えることができます。「技術的無意識」と呼ばれることもあります。特に写真や映像や音声などは、気軽にカメラやマイクを向ければいいし、再生すれば容易に記憶をなぞり返すことができるという点で魅力的です。

記録は、そのまま再生する以外にも、切ったり並べたり混ぜたりすることで、多様な表現に展開することが可能です。写真のコラージュ作品やほとんどの映像作品やメディアアートはこうした編集を経ており、記憶をなぞり返すこと以上に、他の人と共有可能な感覚や物語を生み出しています。編集で行われているのは、カメラやマイクで捉えようとした意識上の経験と、捉えてしまった意識下の像とをレイアウトすることだと言えると思います。

このように、写真や音声や映像といったメディアによって意識下のものを編みなおし、人と共有可能な形にできるということが、場所の無意識的な意味を読み取ったり共有したりすることに応用可能だと考えています。

また、この構造は演劇やパフォーミングアーツに見られることだと思います。演劇においては、日常生活の身振りを模倣して相対化し、別の場所で再演可能な「型」を獲得しています。模倣という意識的なことを行いながら、それを上演する過程で意識になかった様々なことを取り入れながら、共有可能な演劇を作っています。

現在は、写真や音声や映像といったメディアを用いることで、演劇のような構造をもった共有の仕方を考えています。

場所の記述についての習作