身体を持ったひとりの人間は、あまりに多様な、多量の情報の入力に対して、なんとなくそれに合わせながらぷかぷかと生きている。「なんとなく」の中身は認知科学などの見識に任せるとして、ではそうして生きている現在の状況はどのように解釈したらいいのだろうか、ということに私は関心がある。

歴史は、口承で神話が伝えられていた時代も含めて、過去の物事の意味を解釈・再構成しながら物語をつくることだといえる。昔はこうだった、こういうことが起こった、というような断片から、それぞれの因果関係の網目を想像していく。そうした網目の端っこに現在があることを想像する。

一方で、あまりにも多様・多量な情報の断片や、「なんとなく」合わせながら生きているという出来事は、こうした歴史にはなっていかない。歴史がつくりだしている物語からみれば些末なことかもしれないし、なにより解釈しきれないからだ。だから私たちはこうした何でもない瞬間を忘れていくし、理性的な解釈の層で蓋をしていく。ところが、やはりそうした瞬間が今生きている現在の状況の本質であるし、それによらない歴史は、何でもない瞬間の蓄積によってバタフライエフェクト的に形成されてきた出来事の氷山の一角を、はるか遠くから観測し誤解してできあがっているものにすぎないかもしれない。

要は、昔はこうだった、こういうことが起こった、というような断片を解釈しやすい状態にした固定的な物語にしていくのではなく、そうした多様・多量の断片を解釈しきれない状態のまま保存していき、そうしたオチのないアーカイブの端っこに現在があることを想像するようなあり方があるのではないか。

とはいえ、大きな物語で語り継いでいきやすい歴史というものは、人をまとめていく上で制度的に扱いやすいし、その物語をつむいでいく現在という見方は直感的で理解しやすい。だが、展開がよく分らない、オチがわからない映画のシーンが印象的に残っていることがあるのと同じように、現在を構成する無数の断片の、なんでもなさを大事に拾い集めていきたい。


(この考え方は私なりの情報整理の試行につながり、後にGardenを作るきっかけになった)

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