2026.08

8時に起床。と同時に、プラントショップでの新たな制作企画についての相談の電話を受ける。状況が面白い企画だから、ストーリーの精密性よりも、読み取れることが多い方がいい。そんなわけで状況を生み出す小道具やシーンの構想を手伝った。今回は主導ではないのに、なぜか自分が決断することが多く、ほんとうにそれでいいのか不安になる。

最近は固定しがちな(だがそれでいいと思っている)トーストと目玉焼きの朝ごはんを食べた後、収集記録の整理に取りかかる。A8ファイルにある未整理資料を10件ほど新規で登録したのち、2022年のものをA2ファイルに集めるという作業を行った。2022年は、建築設計課題が始まり大学の授業の資料やメモが多く残っている。あとは旅や出かけ先で入手したリーフレットなど。すでに4年経過しているので、紙の資料は歴史の風格を帯び始めている。物理的にも心理的にも。作業は簡単と思われたが、古い資料はナンバリングが現在と異なり、また保存方法も異なるため、それを更新する手続きが意外と大変だ。2.5時間ほどかけ、今日のところは終えた。まだまだ整理すべき資料は多い。未登録のファイルがまだ6つほどあるうえ、デジタルデータには膨大な記録が眠っている。これを整理するのがもはやライフワークになってしまいそうだ。でも、それがいいのではないかと思っている。

4日前に作った肉野菜炒めと炊いたごはんの食事を終え、13時に出かけた。外は真夏とは思えないほど、まるで10月のように涼しかった。しかし秋という感じではない。どちらかというと6月。今日は歴彩館で謎のイベントがあり、それをめがけて繰り出したのである。そのイベントというのは、防災に関して研究会を行っている団体が主催する、『GELEL』の上映会兼、防災に関する研究者と監督との鼎談である(『GELEL』というのは、去年自分も制作に参加した特撮映画)。自主映画と防災が繋がるなんて考えたこともなかったけれど、この組み合わせならあり得る企画だったので、少し興味があった。『GELEL』の防災の観点からの批評、というのは斬新すぎてもう面白い。(つづく)

「言語によって明晰になるもの、言語が明確にしたのちになお残りつづけるもののいっさいをはらんで、言語こそが「いっさいの」可能性を、言語以前的とされるもの・ことのすべてをふくめて、いっさいが立ちあらわれる「可能性」を準備する」(廣松渉『もの・こと・ことば』の熊野純彦による解説より)

言葉を操ることが苦手な私は、苦手だからこそそういったものの現れ方に惹かれている。世の中にあるあらゆる言葉、言語を収集して、眺めていたいと思う。たいていの人は、考える以前に、条件反射的に生み出せる。なぜそういったことができるのだろう。考えたことしか言葉にできない私は、立て板に水のように話す人々が興味深い。ChatGPTと話すって、どういうことなんだろう。

「いっさいの」可能性を準備するために、無理にでも言葉を残していきたい。

洗濯物を干している。東京学生映画祭関連で4日間ほど出かけたのに加え、その後もバタバタして家事をする暇がなかったので、洗濯するものがたまっていた。今日は3回も洗濯機をこき使い、ベランダ、室内、椅子の上のあらゆるところに干している。エアコンは涼しい風を吐き出す。

私は私の所有物に対して、どのくらい気にかけられているだろうか。1日中どこかを整理したり掃除したりしながら、この狭い部屋の中にあるものたちの膨大な情報に圧倒される。例えば、2年ほど前に下鴨神社から貰ったお守りの木の入れ物の中に、ひん曲がったビールの蓋や日本酒の蓋を切り取ったものが入っている。状況自体は謎なのだけれど、状況の理由がいちいち思い出せるから困る。そして、これを見つけるまで忘れていたということに、漠然と無力感を覚える。

記憶は自分の内側ではなくて、場所に外化されており、自分はその再生装置でしかない。大山顕の『新写真論』を思い出す。私は、生涯にどれだけ記憶を外化して、そのうちのどれだけを再生できるのだろうか。ものたちには、眺めるだけではわからない奥行きや表面積がある。その情報の可能性の膨大さを想像すると、もはや外へ出かける勇気も失せてくる。暑いし。

洗濯物の表面積を広げながら考える。